欧米列強のアジア進出と幕末の危機

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歴史教科書読み比べ(35): 欧米列強のアジア進出と幕末の危機

迫り来る欧米列強の圧力のもとで、我が国はいかに独立を護ったのか。

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■1.日本近海でも戦っていた欧米列強

 鎖国政策によりカトリック勢力を閉め出して、長期の平和を享受した江戸日本でも、19世紀に入る頃になると、ロシア、アメリカ、イギリスなどの欧米列強の船が近海に出没するようになる。

東京書籍(東書)版は、その様子を日本地図上にコンパクトにまとめている。
育鵬社版も同様のまとめをしており、記載している事件は多少の違いがあるが、両書を合わせると次のような事件が相次いだ。

1792年 ラスクマン来航(ロシア、根室)
1804年 レザノフ来航(ロシア、長崎)
1808年 フェートン号事件(イギリス、長崎)
1824年 船員上陸(イギリス、薩摩藩宝島)
1824年 船員上陸(イギリス、水戸藩大津浜)
1837年 モリソン号事件(アメリカ、浦賀)
1853年 ペリー来航(アメリカ、浦賀)

 東書版では、さらに国別の出現回数を図示しており、たとえばイギリスを例にとると、以下のようになっている。
 1778~1829 14件/1830~1852 13件/1853~1855 19件

 しかも、当時は欧米列強どうしが戦いあっていた。
たとえば、フェートン号事件とは「イギリスの軍艦フェートン号がオランダ船をとらえるために長崎港に侵入。オランダ商館員をとらえて、まきと水、食料を要求する」と、東書版は説明している。

 さらに1854年にはロシアとトルコのクリミア戦争に英仏が参戦し、その連合艦隊がカムチャッカ半島先端近くのロシアの要塞を攻撃し、その二日後にはイギリスの軍艦がロシア艦隊を追撃するために、長崎に入港している。
江戸日本が泰平の世を楽しんでいる最中にも、欧米列強の軍船は日本近海で戦いを繰り広げていたのである。

■2.アヘン戦争の衝撃

 特に、日本の朝野に衝撃を与えたのがアヘン戦争だった。
イギリスが清との貿易赤字をカバーするために、インドで麻薬のアヘンを作らせ、清に輸出したのである。
1840年、麻薬中毒患者の激増と代金流出に困った清がアヘンを取り締まると、イギリスは戦争をしかけた。
今日の麻薬マフィアさながらの悪行を国家として行っていたのである。

 イギリスは圧倒的な海軍力で清を打ち負かすと、多額の賠償金を取り、香港を植民地として割譲させた。
世界の大国である清が、ヨーロッパの片隅からやってきたイギリス艦隊に負けたというニュースに接した当時の日本の反応を、育鵬社版は次のように描いている。

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 アヘン戦争での清の敗北やその混乱は,「オランダ風説書」などを通してわが国にも伝えられました。
また,外国船もしきりに日本の近海に出没するようになり,武士や学者の中に,日本の安全と独立に危機感をもつ人々があらわれました。
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 東書版では、当時の日本人の「危機感」については明確に描いていない。

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(老中の水野)忠邦は,アヘン戦争で清がイギリスに敗れたことを知ると,異国船打払令をやめ,日本に寄港した外国船には燃料のまきや水をあたえるよう命じる一方で,軍事力の強化を目指しました。
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 この後で、忠邦が「銚子から江戸湾までの水路を造るために印旛沼(いんばぬま)の開発を再開し,さらに江戸や大阪周辺の農村を幕領にしようとしました」と書いてあるが、これが何のためか、読者にはさっぱり分からないだろう。

 実は、江戸は巨大な人口を養うための食料を海上輸送に頼っており、異国船に江戸湾を封鎖されたら10日で飢餓に襲われる。
その予防措置として、銚子から品川への内陸水路を作ろうというのが印旛沼開発の目的だった。
また江戸や大坂周辺を幕領にしようとしたのは、小藩の入り組んだ領地を整理して、海岸防備を幕府が直接進めようという考えであった。

■3.「外国との関係を結ぶことをきらった朝廷」?

 嘉永6(1853)年、ペリー率いるアメリカの黒船艦隊が来航し、軍事的な圧力のもとで、幕府と日米和親条約を結んだ。
これはアメリカ船に食料や水、石炭を供給すること、アメリカの領事を下田に置くことを約束した条約であった。
安政3(1856)年、着任したアメリカ総領事ハリスは、幕府に通商条約の必要性を説いた。
この点について東書版はこう記述する。

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 幕府は,外国との戦争をさけるため,ハリスと交渉して条約案を作成し,朝廷に許可を求めました。
しかし,外国との関係を結ぶことをきらった朝廷は,条約を結ぶことを許可しませんでした。
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「外国との関係を結ぶことをきらった朝廷」との表現は正確ではない。
孝明天皇は、アメリカ船に水や燃料を提供するという和親条約は人道的な措置であり、「神国日本を汚すことにはならない」と考えていた。

しかし「通商条約は、表面上は友好をうたっているが、じつはわが国を侵略しようとするものなので、誰が何と言おうと許しがたい」と書簡に書いている。

 アヘン戦争がアヘン貿易から発していること、しかもアメリカもトルコのアヘンを清に売り込んでいたことを考えれば、当然の危機感であろう。
孝明天皇は公家たちに自由に意見を言わせ、公家たちは「人心の折り合い(国内の合意)が重要なので、諸大名に意見書を提出させ、天皇のご覧に入れるよう」との多数意見でまとまった。

 しかし、アメリカの軍事的圧力に屈した大老・井伊直弼(いい・なおすけ)は、朝廷の許可を得ないままに、日米修好条約を結んでしまう。

■4.尊皇攘夷運動の高まり

 東書版は、この後の政局を次のように説明する。

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 幕府が外国の圧力に負け、朝廷の許可を得ずに通商条約を結んだことから、天皇を尊ぶ尊皇論や外国の勢力を排除しようとする攘夷論が高まりました。
尊王論と穰夷論とは結び付き,幕府の政策に反対する尊王攘夷運動が盛んになりました。
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 幕府が朝廷の意向を無視した事から朝廷の権威が落ちる、という事もありうるのだが、なぜ逆に「天皇を尊ぶ尊皇論」が出てくるのか、もう一つピンとこない説明である。

 育鵬社版は、こう説く。

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 幕府が朝廷の許可を得ずに外国と条約を結んだことによって,幕府と朝廷の溝は深まりました。
また,この条約は外国への屈服だとして,幕府の政策に不満をもつ大名や武士からは非難の声があがりました。
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 その非難を井伊大老は権力で弾圧し、吉田松陰や橋本左内など天下の志士を処刑する(安政の大獄)。
これに怒った水戸藩の浪士たちが井伊を江戸城桜田門外で暗殺する(桜田門外の変)。

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 江戸城の前で幕府の大老が殺されたことは,幕府や諸藩にとって大きな衝撃でした。
このころから,幕府に反対し,朝廷を中心として外国に立ち向かうべきだとする尊王攘夷運動が高まりを見せるようになりました。
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 外にはアメリカの戦力を恐れて通商を始め、内には権力で異論を押さえ込む。
そんな幕府のやり方では、国内が一致協力して独立を守る事もできない。
そういう危機感から、尊皇攘夷運動が高まっていったのであろう。

■5.薩長の攘夷

 こうした中で、文久3(1863)年、欧米列強との戦いを長州藩と薩摩藩が起こす。東書版の説明によれば:

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・・・イギリス、フランス,アメリカ,オランダ4国の艦隊は,連合して長州藩に報復の攻撃を行い,下関砲台を占領しました。
欧米の軍事力を実感した長州藩の木戸孝允などは,列強に対抗できる強い統一国家を造るため,幕府をたおそうと考えるようになりました。
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 欧米列強の軍事力を実感した事から、強い統一国家を造ろう、というのは分かるが、それがなぜ「幕府を倒そう」という考えにつながるのか?
強い統一国家を造るために、この際、幕府に協力しよう、と考えても、論理はつながる。

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 薩摩藩でも,生麦事件の報復のため起こった薩英戦争でイギリス
艦隊に鹿児島を攻撃されると,西郷隆盛や大久保利通が実権をにぎり,イギリスに接近して軍備を強化しました。
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 これもイギリスに攻撃された後、なぜ西郷隆盛や大久保利通が敵のイギリスと接近したのかが、理解できない。
イギリスにやられたので、フランスに接近するという手もあったはずだ。

 どうも東書版のこのあたりの記述は、史実をそのままつなげてしまっていて、当時の人が何をどう考えて、そういう行動をとったのか、という説明が不足している。

■6.「大攘夷」の戦略

 この点を、育鵬社版は次のように説く。

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 この経験によって,薩長両藩は,単純な攘夷は不可能であり,むしろ欧米のすぐれた文明を導入することで,日本の独立を守り, 欧米に負けない国家の建設へ向かうことが現実的だと考えるようになりました。
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「単純な攘夷」とは、現状の軍事力で欧米列強を迎え撃つことである。
それに対して、一度、開国して「欧米のすぐれた文明を導入すること」で、日本の独立を護る路線を「大攘夷」という。

こう考えると、攘夷を謳っていた薩長がひとたび政権を握ると、一転して開国路線をとった理由が見えてくる。
「単純な攘夷」から「大攘夷」の路線に転換したのである。

 幕府が進めていた開国路線のように、何のビジョンも持たないまま、欧米の軍事力に屈してずるずると開国を拡大していっては、清国の二の舞になりかねない。
「大攘夷」を見据えた「開国」でなければならないのである。

 実際には、幕府も孝明天皇への言い訳として「大攘夷」を唱えていたが、それを実行するエネルギーはもうなかった。
西郷や大久保は幕府を倒し、新しい中央集権国家として出直すことが、大攘夷の実現には不可欠と考えたのであろう。

■7.「外国の介入をふせ防ぎ日本の独立を守る」

 こうした中で、第15代将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)は、幕府による政治はこれ以上続けられないと考えて、慶応3(1867)年10月、政権を朝廷に返すことを発表した(大政奉還)。

 慶喜は天皇の下での新政権で主導権を握ろうとしたが、西郷や岩倉具視(ともみ)などが、朝廷を動かして、王政復古の大号令を出し、さらに徳川家の影響力を除くために、慶喜に官職、領地の返還を命じた。
これ以降の動きを東書版では次のように記す。

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 1868年, これに不満を持つ旧幕府軍と新政府軍との間で烏羽・伏見の戦い(京都市)が起こり,新政府軍が勝利しました。
新政府は,江戸城を明けわたさせ,その後も軍を進めて,翌年には函館(北海道)で旧幕府軍を最終的に降伏させ,国内を平定しました。
こうした旧幕府軍と新政府軍との戦いを戊辰戦争といいます。
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 しかし、ここに書かれていない大切な点がある。
育鵬社版には、こうある。

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新政府軍はこの戦い(鳥羽・伏見の戦い)に勝利し、慶喜は江戸に逃れて旧幕府軍も敗走しました。
こうして戊辰戦争とよばれる内戦が始まりました。
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 戦闘が始まったのは、慶応4(1868)年1月3日だが、慶喜は6日夜、幕府軍艦開陽丸で江戸に敵前逃亡してしまう。
新政府軍に官軍の錦の御旗を押し立てられては、尊皇思想の中心地・水戸藩出身の慶喜としては、「もはやこれまで」という思いであったのだろう。

 将軍が逃亡してしまった事で、旧幕府軍は継戦意欲をなくして総崩れとなる。
さらに、江戸に戻った慶喜は、上野寛永寺に謹慎してしまう。
その後の戊辰戦争は、将軍なきままに戦われたのである。
慶喜が果敢に抵抗していれば、内乱はもっと長期化していたはずだ。

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 この戦い(戊辰戦争)に当たり, 旧幕府を支持するフランスは慶喜に軍事援助を申し出ました。
しかし、慶喜はそれを断り,結果,外国の介入をふせ防ぎ日本の独立を守ることにつながりました。

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 この育鵬社版の記述は東書版にはない。
内戦に際して、外国軍を引き入れたために、独立を失った国も少なくない。
後に慶喜が罪を許され、公爵・貴族院議員にもなっているのは、その事態を防いだ功績からだろう。
しかし、これは一人、慶喜の見識のみならず、「日本は天皇を中心とした独立国家である」とする尊皇思想が国内に広まっていたからこそ実現した奇跡とも言える。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(173) アヘン戦争~林則徐はなぜ敗れたのか?
 世界の中心たる大清帝国が、「ケシ粒のような小国」と戦って負けるとは誰が予想したろう。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog173.html

b. JOG(994)人物探訪: 澄ましえぬ水にわが身は沈むとも ~ 孝明天皇の闘い
 幕末の危機に、孝明天皇は一身を省みず、国内の一致結束と国家の独立維持のために闘った。
http://blog.jog-net.jp/201703/article_3.html